やっとたどり着いた場所をやっとたどり着いた場所をもうあなたを好きではないと気づき、そして、 もうあなたと逢うことはしないと決めたのは、夕闇に姿を紛れさせ始めた銀座の街角。 シアトル系カフェの近くで、煙草を吸いながら眺めていた割烹料理店から、 女将さんが出てきた。 去年の夏、会社の先輩や上司と訪れたその店は、 静かな佇まいの雑居ビルの二階に入居している。 銀座で生まれ育った女将さんは、今年で確か八十三歳になる。 細く急な階段を、年齢相応にゆっくりと降りてきた女将さんの左手には、 遠目にも、車のキーが握られているのがわかった。 たぶん、お客さんのキーだろう。 路地に降り立ち、周囲を眺めてから、めぼしをつけて車にキーを差し込む。 深い緑色をしたジャガーのナンバーは、習志野だった。 二度ほど運転席のドアを閉めなおしてから、エンジンをかける。 前後に停められている車のあいだから、勢いよく車体を滑り出すと、 そのまま急発進して少し前の空間に、縦列駐車をした。 歩く速度からは想像できないくらいに手際よく、惚れ惚れするほど綺麗な移動だった。 ものの十秒程度の出来事。 ピッタリと納まった車体から、再びゆっくりと降りた姿は、 やはりそれは紛れもなくいつものおっとりとした女将さんだった。 出て来たときとは違う、ちょっと軽いキーの握り方をして、車の位置を確認すると、 クルリとキーを掌の中で回して、まるで何事もなかったかのようにして、 すまして店へ続く階段へと消えていった。 「さすが江戸っ子…」 私は、灰を落としそうなほどに放心していた。 和服の裾を乱すことなく、そして運転など、まして車なんか 触ったことも乗ったこともないかのような表情が印象的だった。 粋とは、こういうことなんだろうと感じる。 鞄の重さで下がっていた右肩を伸ばし、 ビルの間からようやっと見える、星空に視線を上げた。 「私、何やってんだろ」 女将さんのしゃんと伸びた背筋を思い出しながら、店の灯りが漏れる二階の障子窓に、 上げていた顎を落とす。 賑やかな雰囲気が、木漏れ日のようにあふれ出て感じられた。 どうしようもない男だってことくらい、ずっと前から気づいていたのに。 知っていながらも、逢えば楽しく面白いからと同じことを何年も繰り返してきた。 「はい、もうちょっと腰おとして下さいね」 一ヵ月前に初めて訪れた産婦人科での記憶が蘇る。 想像していたほどに、その診察台は大袈裟なものではなく、 努めて平静を装って両足を乗せた。 「粘膜だけ採取しますから…もうちょっと楽にして下さいね」 「はぁい」 私は深呼吸しながら、お腹の力を抜く。 体温と同じくらいの器具が私の中に少しだけ入った。 薄いベージュ色をした天井を見つめながら、感覚を尖らせる。 私の部屋ほどの診察室には、カーテンやタオルなどが眼につくように配置され、 診察に使う器具や薬などは、眼に触れないようになっている。 全部、覚えておこう。 そんな思いがあった。 「入れさせてくれないと入らないよ…」 何故か、初めてセックスをしたときの相手の言葉が浮かんでおかしくなった。 あの時に比べたら、何が起きるのかわからないという不安は、 もうないのだから…そう、自分に云い訊かせる。 「触診もしますね」 なんだか変な気分になる。 女医さんの利き手が、奥のほうへと、機械的な動きで移動していく。 こんなんで何がわかるんだろう。 真っ白な脳でぼうっと想像する。 初めての診察だからと、色々調べて、 信頼のおける産婦人科をインターネットで調べ、知り合いからの情報も加えて決めた病院。 毎週木曜は、全国的に名の知られたキリスト教系病院から女医さんが診察にくるのだと知り、 職場から近いこともあって、ここにした。 結果は一週間後に出るらしい。 ずいぶん長いことかかるものなんだという考えと、 一週間も間を置いてもいいくらいのものなのかとビックリした。 どうせ結果はわかってるんだから、早く薬をくれたらいいのに。 反抗的というほどではないけれど、醒めた自分がいる。 「ちょっといやなお知らせです。実は性感染症のクラミジアにかかってたらしい。先月久々に行った風俗が原因かと…泌尿器科か婦人科に行って診てもらってください。抗生物質で一週間くらいで治るそうだから。ご面倒をおかけします。ごめんね」 彼からメールが来たのは、その二日前のことだった。 食事中だった私は、愕然とした。 彼が風俗に行ったことにではない。 そういう場所に彼が出入りしていたことを知っていながら、 病気に関する危惧を持たずに彼と逢っていた自分と、 安々とその病気を私に感染してくれたことに、だった。 すごくガッカリした。 気が抜けるとは、こういうことを云うのだ。 「ご報告どうも」 それだけ返事をして、私は食事が喉を通らなくなる。 ため息をこぼそうにも、一緒に食事に来てお喋りに花を咲かせている同僚たちの中にいては、 笑顔を纏うしかない。 「どうしたの?」 一人が私に気づいた。 「? あ、ああ…ちょっと急ぎの仕事入っちゃった。ごめんね、先に戻るわ」 「近藤さん?」 「…まあね」 「大変だねえ」 「じゃ、ごめんね、お先」 現在、同じプロジェクトを担当している営業部の人間のせいにして、席を立った。 人間の躰というものは、上手いことできているものだ。 病は気からという言葉が過ぎる。 ちょっと前まで何でもなかった下腹部が、なんだかシンシンと痛みだしてきた。 たくさんの憂鬱がのしかかり、デスクに戻っても仕事がはかどらない。 夕方五時からの社内会議までに読んでおかなくてはならない資料も、 行間を追うだけで言葉の意味が頭に入ってこない。 抗生物質で胃痙攣になったらどうしよう。 やっぱり家族には黙って病院に行ったほうがいいよな。 誰に相談したらいいの。 彼の顔も見たくないけど、悪態のひとつもつかずに終わるのは悔しい。 どんな顔して、何を云ってやったらいいんだろうか。 産婦人科か…。 子供ができなくなったらどうしよう…。 考え出すとキリがなくなる。 最近のテレビでは、十代少女の性感染症問題がよく取り上げられていて、 一度治っても再発する可能性のある病気だという知識くらいはある。 陽性だという結果を訊かずとも、絶対に陽性だという自信があった。 変な自信だけれど、菌や環境の変化に、私の躰はとても素晴らしく反応する。 「陽性ですので、薬を取りに来てください」 電話の向こうで、受付の女性の声が云ったのは、検査からちょうど一週間が経った朝のこと。 出勤する前に問合せたのだ。 「ほらね…だからすぐに薬くれたらよかったのに」 わけのわからない独り言を抱え、私は鎮痛な面持ちで、 病院に立ち寄りしてから出勤する旨を上司に電話で告げた。 空は、春を待ちわびて、少しだけ花曇りだった。 一週間分だと思っていた薬は、なんと二週間分だった。 しかも三ヵ月後に再診とのこと。ますます気が重くなる。 「二週間分の処方が出ていますが…」 産婦人科のそばにある薬局の薬剤師さんが、確認するように訊いた。 「はい、先生が最初にそう仰ってました」 対面式の受付に立ち、私は診察室での会話を思い出す。 「薬は二週間分になります。朝と夜の二回、食後に服用して下さいね」 「なんという薬になんですか?」 「クラリスという抗生物質です。もし何か症状が出たら、いらして下さい」 薬名をメモしながら、思考回路を辿って私のなかに沈黙ができる。 「…」 例えば胃痙攣になっても、すぐに病院に来られるくらいなら大したことはないのだ。 問題は、症状が出たときに応急処置ができる状態かどうかなのに…。 あの痛さはただものではない。 「事前に、胃痙攣用の処方をしてもらうわけにはいきませんか」 「都度、症状を確認しないと何とも云えませんからねえ…誤って違う薬を服用すると却って大変なことになりかねませんから」 それはそうだ。 「ここに、急性胃腸炎とありますが…」 薬剤師さんが、私が書き込んだシートに眼を通しながら付け足す。 「はい。一度、抗生物質でなったことがありました」 「お医者さん、何か仰ってませんでした?」 「…そのときまた来てくださいと…何か、服用の前に気をつけたり、胃を守るために食べたほうがいいものってありますか?」 「そうですね…」 メガネの奥の眼が、優しく厳しく光る。 「万が一忙しくて食事ができない場合もそうですが、ヨーグルトなんかの、ドロッとしたものを食べて胃の粘膜を守ってあげるといいですよ」 「わかりました。ヨーグルトですね」 「お大事に」 A4サイズの薬の説明書を鞄に押し込めながら、 私はため息とも深呼吸ともつかない息をはいて、薬局を出た。 会社帰り、近所のスーパーマーケットでヨーグルトを二パック買った。 仕事柄、不規則になりがちだった食生活を、無理矢理に調整して、 朝と晩御飯は定時に摂り、必ずヨーグルトを最後に食べてから薬を飲む。 あまり考えすぎて、精神的なものが胃に作用して痙攣を起こしても困るので、 なるたけ気を楽にするようにした。 こんなことで会社を休むほどに内臓を悪くしては本末転倒。 アルコールの摂取は関係ないと云われたけれど、 得意先との食事や飲みの席でもひと口以上、口にするのは控えた。 木曜に薬をもらったのだけれど、週末の土曜午後には大切なプレゼンがあるため、 日曜まで服用をずらした。 早く、一刻も早く治したい病気ではあったが、 体調を崩すという可能性が脳裏を過ぎり、やめた。 独り暮らしの社会人生活では、全てを自分ひとりで解決し、 乗り越えていかなくてはならない。 それが仕事をして生きている人間の責任だった。 そのわりに、感染症に対する処置をしていなかったのだが、もう後の祭り。 いよいよという日曜の朝になり、 ヨーグルトを食べても、掌のなかに小さく白く蹲っている一錠の抗生物質を見ると、 気持ちが弱った。 もしこれで救急車を呼ぶような胃痙攣を再び起こしてしまったら…。 家族にだって知らせないわけにはいかないし、当然何を服用したのか訊かれるだろう。 そうしたら…。 様々な想いが心を駆け巡る。 これほどに副作用を懸念するのは、 以前に服用した抗生物質で急性胃腸炎をおこし、 夜中に激しい胃痙攣で救急車で運ばれたことがあるから。 胃のなかに何か物体が発生したのかというほどに胃が膨れ、さすっても仕方がないし、 転げまわって痛みを紛らわせたいけれど、それすらできない。 胃が、外と中から同時に強力に押されているような感じだった。 「何を食べたんですか」 救急病院で医師に訊かれた。 そんなもの、答えることができる余裕があるなら、救急車など呼ばない。 うつろな眼をしながら、夕食前からのメニューを上げた。 とうもろこし、ご飯、納豆、味噌汁、プリン、枝豆、生麩、棒餃子。 「食べ合わせが悪いせいですね」 食べ合わせが悪いことくらい、云われなくてもわかるが、 それで胃痙攣や急性胃腸炎になるのなら、とっくの昔に胃腸炎と友達になっている。 しかし、そのときは藁をも掴む、どうでもいいから早くなんとかしてという思いから、 「そうですか」 と答えておいた。 あの夜は地獄だった。 それでも、やはり飲まないわけにはいかない。 意を決して勢いで飲み込む。 水で食道を流れていく固形が感じられた。 「…はあ」 結局は、何の異変もなく、毎日少なくなっていく薬の数をかぞえながら過ごした二週間。 毎日切らさずに買い続けたヨーグルトのパックだけが、 週に一度の燃えないゴミの日になると山のように溜まっていく。 その間、彼には会わなかったし連絡もとらなかった。 取れなかった。 何を云う必要もないし、何を伝えていいのかもわからなかった。 自分の愚かさのせいで、 こんなにも長い二週間を過ごさねばならなくなったことへの後悔だけが、 私の心を支配し続けたから。 「お手数をかけて申し訳ない」 そんなメールが何度か携帯に届いていた。が、私は無視を通した。 自分のせいだと思っても、彼に対する憤りと絶望感はそう簡単に拭い去ることはできない。 本当に悪いと思ってるんなら、メールじゃなくて電話の一本でもかけてこいよ、 というセリフが頭のなかで渦を巻いて音を立てた。 「来週、出張から帰ったら会おうか」 そう連絡が入ったのは、先週のことだった。 抗生物質生活から解放されて二週間。 体調はよく、精神的にも落ち着きを取り戻し始めていた。 自分のなかに溜まっていた陽性が、消えてなくなっていることを確かに感じながら過ごし、 あの二週間のおかげで生活のリズムが整ってきている。 あれから、毎朝ヨーグルトを食べる習慣がついていた。 さんざん迷って、私は彼と会うことを決めた。 ところが、彼と会う日が近づくに連れて、忘れかけていた気の重さが復活した。 段々と彼に会いたくない気持ちが増し、どうやって断ろうかとばかり考えている毎日。 直接、今回のことを謝ってくれるのではないか、 謝って欲しいという気持ちから会うことを決めたけれど、 内心、彼はきっと謝りはしないだろうという確信もあった。 何事もなかったかのように、セックスを求めてきそうな予感がした。 そのとき、私は断りきれるだろうか。 これまでの関係だって、もう長年付き合ってきた馴れ合いの延長のようなものだったから、 セックスさえも決まりごとのような感じだった。 だから、彼が自分の欲求の始末を、 風俗でつけることにもこれといって嫌悪感を覚えることもなかったのだ。 馬鹿だなあと感じて苦笑することはあっても。 彼との付き合いの年月、本当に呆れるほど色々なことがあった。 浮気なんてものが、気にならないくらい、女性が常にいっぱいいたし、 その存在を私にもその相手にも云ってしまう。 嘘をつかない性格だと云えばそれまでだけれど、 その傷に徐々に馴らされ、恋愛に対する感覚が、 もしかすると麻痺していたのかもしれない。 約束の時間に来ないことは毎度のことだったし、 他の女性と過ごした翌日、その形跡を残したままでも、平気で私を部屋に誘った。 何度も、終わりにしようと思ったのに、逢えばその気持ちが鈍った。 いつからか、それが自分と彼の関係の在り方なのだと自分に云い訊かせて。 約束の当日も、意味もなく残業をしながら会う時間を延ばし延ばしにした。 こんなに会いたくないのに、私はどうして会うことだけを前提にしているのだろう。 「やっぱり会いたくない」 と、たったひと言、云えばそれで済む、それで終わる話なのに。 愛情なんかじゃないことは、もうとっくにわかっているのに。 改めて自分の愚かさと理解不能な領域を知る。 いやいや顔をあわせた瞬間の、私の重い気分と表情を、彼も絶対に感じ取ったはずだった。 それでも久々に会うのだからと、私はなるべく明るい笑顔で食事をした。 いつか彼の口から謝罪の言葉を訊けるのではないかという期待を胸に。 けれど。 やっぱり彼はそのことに触れようとはしなかった。 私が傷ついていたことを、彼が知らないはずはない。 連絡をしなかったことだけで十分に伝わっていると思いたかった。 でも、触れようとしないどころか、彼の声からは、 もうすでに「あのこと」が忘れ去られているということしか伝わってこない。 何度きっかけを作っても、彼の表情には現在しか映っていなかった。 「今日さ、うちに泊まってく?」 店を出たとき、彼は唇を私の耳元に寄せてささやいた。 あなたは知っている? この病気が、不妊につながる危険性を孕んでいることを。 そして女性のほうが治りづらく、再発することだってある。 何より、どれだけの精神的負担と経済的負担があり、服用している間中、 どれほど私が心細かったか。 薬の副作用だって怖かったし、 倒れて職場に迷惑をかけられないからと色々と工夫して生活していたこと。 仕事が終われば今日も一日大丈夫だったとホッとし、 朝は朝で、夜に服用した薬で胃が痛くないことを知って安堵する、 そんなことの繰り返しだった長い長い二週間の時間。 そして、あなたの軽率な行動に落胆し、たとえあなたが謝ってくれたとしても、 もうこれ以上関係を続ける意志はこれっぽっちも残っていないことを。 それなのに。 あなたは、謝るどころか、予想していた展開を繰り広げてしまった。 もう何も言葉はなかった。 弱った心に追い討ちをかけたあなたのセリフに、私は最後の微笑みを向けた。 「明日早いから…」 これで最後なのだとわかっていたけれど、 この土壇場でも、私はあなたに自分の落胆も怒りも告げられない。 ごめんね。 私にも、あなたにも。 天気は、こんな夜半過ぎになって、予報どおりに小雨になった。 とぼとぼと駅までの道程を一人歩きして、途中で、 私は傘を持たずに会社を出たことを思い出した。 やっと自由に、やっと自分を大切にできる道を歩き始めたのに、 なぜか心は沈んだまま、どこへ向かっているのかが見えなかった。 がらんとした心で立ち尽くしていた視界に映った、女将さんの後ろ姿は、 凛としてとても美しかった。 私もあんなふうに年齢を重ねたい。 いや、そうではない。 今、もうこの瞬間から、しゃんと背筋を伸ばして生きたいのだ。 やっとたどり着いた場所は、悲しみと寂しさの隙間を抜けて、 憧れの実現へと向かいかけているのかもしれない。 彼からもらった唯一のプレゼントだったスケルトンピンクの百円ライターを、 カフェ外の吸殻入れに静かに置いた。 ジャンル別一覧
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